自己愛の過剰摂取

メンヘラオタクが暇つぶしに何か書きます 

差異

人に嫌われるのが得意。気持ち悪いから。

 

嫌われ始めたのは中学くらいで、その頃は男のくせに全然身長も伸びなくて力も付かなくて、みなの当たり前とは違くて差異で嫌われていた。集団の中で異常なものは廃除される。当たり前のように嫌われていた。

 

嫌いという感情は特別で、好きでも興味ないでもなく、傷つけたりすると気持ちよくなる。差異は省く。省くと気持ちよくなる。生存に必要な能力っぽい。

 

方法は主に暴力。中学生くらいの男子は力が有り余ってるから仕方ないね。足をけられすぎて肉離れを起こす。これは個人的には面白エピソードです。なかなかいないでしょ、足蹴られすぎて肉離れ起こすなんて。みんな笑ってくれてるかな。気持ち悪いね。

 

高校に入ってからは特になかった。いじめられたくなくてわざと遠くの高校行ったし、みんな部活とかバイトとかデートとか、それなりにやることがある感じで、いじめとかあんまり起こさなさそうだった。ぼくもうまく馴染めてたのかも。この頃はぼーっとするのが得意だった。現実に興味なかったから。本読んでるか、ぼーっとしてるか。この頃からみんなが興味あることに興味がない感覚があった。どうせ無理だから、なるべく静かにしていよう。この頃はそこそこ人と話していたが、今では一つも連絡先が残っていない。必要ないから消した。多分みんなそう思ってるよ。

 

他者に興味を持つのが難しい。他者はどうでもいい。自分もそう思われてるし。人生にはなんの価値もなく、人は無意味に存在している。存在していることが意味なのかも。存在していることを観測していればそれで十分な気がする。

 

大学に入ってもそこその人と話す。社会に馴染むためにはコミュニケーションが大事。孤独は生き辛い。大学生にもなれば他者もそれなりに落ち着いているし。人とある程度関わった方が楽だと思えてるのはいいことだと思う。たまに疲れるけど。あとじぶんがその場にいる意味が無いことに呆れることがある。何してるんだろ。意味無いのに。けどそれなりに関わる。自分が楽をする方が大事だから。他者は概念でオブジェクト。世界を楽に作り変える。

 

いつまで存在し続けているのだろう。先は長いらしい。けどきっと、そのうち何もかも終わるんだと思う。生きてるけど存在しているわけでは無い。そんな感じ。無意味であることがゆるされる。それまでにいくつ傷を残せばいいのだろう。