自己愛の過剰摂取

メンヘラオタクが暇つぶしに何か書きます 

生存報告

久しぶりにブログを開きました。いまだに閲覧数が更新されているようで、どういう人が開いているかはわかりませんがあまりにも更新がないのはどうなのかなと思ったことと、たまには自分の感情を言語化することも大切なのかなと思って近況を書いてみようと思います。

 

現状はいまだに精神科に通いながらフリーターを続けている状態です。特にこれといった出来事もなく、ただ死なずにだからといって何かを頑張れるわけでもなく生を続けています。

 

彼女のことに関しては本当に何も考えなくなりました。ただ、暑い夏の日になるといまだにあの時の情景がふと頭をよぎりインターネットで彼女のインターネットの名前を検索して少し思い出すということを繰り返しています。

あの時の自分は就職したてで、会社と自宅の往復を慣れないながらも続けながら空いた時間で彼女と通話する日々を送っていました。家が山の麓にあったので周りには田んぼしかなく、かろうじて歩いて行ける距離のコンビニに飲み物を買いに行くなどしてたような気がします。

若い頃は、人間の人生は極端に生と死があるように感じていましたが、今では生と死は地続きで繋がっており自分は今死へとのんびり歩いているような状態に感じます。

彼女はまだ若く、人生の全体像を掴むにはまだ先が長すぎて体を傷つけてしまうほどの苦しみを抱えていて死を選ぶ力を持っていました。

こうやって文章を書いていると、当時の情況が思い出されなぜ自分が共に傷つかことができなかったのかという後悔と、何度繰り返しても自分の愚かさゆえに共に生きていくことはできなかったんだろうという無気力感があります。

 

同じようなことをずっと書いていても仕方ないですよね。自分はいまだに生きてしまっているので生きているからには生を続けて死に向かって緩やかに進んでいかないといけないので、まだまだ苦しみの中でもがいていくと思います。

もう文字で謝罪しても仕方ないですよね。現に今まで忘れてしまっていたわけですし。

このブログを読んでいる方々も、おそらく生を全うできるわけではない人が多いと思います。これからも苦しみはたくさんあるかもしれませんが、人間は1人で生きていけず誰かの感情の一端を担っているように思います。死にたくなるほどの苦しみや悲しみは世の中にたくさんあります。けれども死以外の選択肢というものも世の中にはたくさんあるんじゃないかと思います。無責任かもしれませんが、生は死につながっています。しかし死んでしまったら生を続けている人たちはより苦しみを味わうことになると思います。私が何かできることがあったら言って欲しいです。私は自殺をすることができないので、生を続けます。人は1人じゃ生きていけないなどと言うのは簡単です。もし今辛かったし悲しかったり寂しかったりしたら誰かを頼ってください。私でもいいです。少しでも助けになれるかもしれません。

 

こんな偽善者のようなことを書いてしまいましたが、ただ単に自分が寂しいだけなのかもしれません。人間利用し合うものだと思います。