自己愛の過剰摂取

メンヘラオタクが暇つぶしに何か書きます 

感情の熱量

私は今まで自分の人生に対して理想だとか目標だとかを持ったことがなくて、他者よりも人生に対する熱量の低い人間だと思う。

 

他者と話している時に、貴女はなにになりたいのか、貴女はどうなりたいのかと聞かれることがある。私はその時決まって言いはぐれてしまう。自分に理想がないから。どうなりたいだとかどうしたいだとかいう気持ちがなくて、ただ流されるように生きている。親がこうしろと言ったから、世間的にこうすることが一般的だから、そういうよくわからない自分よりも大きなものによって流されて生きている。自分のために頑張るということはどういうことなのだろうか。なにか大きな流れに逆らってまで自分のしたいことがない。ただ言われたことをこなすだけの日々、それで困ったことはない。

 

私は今まで何不自由なく育ってきたように思う。実家が貧乏なわけでもなく、頭が酷く悪いわけでも、運動神経が壊滅的でもなかった。人付き合いは苦手だったけれど、多少の友達は存在していて、強い孤独に苛まれたことも無い。親は厳しかったが暴力を振るうわけでも、進路を勝手に決めることも無く、何となく進みたい方向にも進めている。恋人だってこういってはなんだが切らしたことがない。顔が特別いい訳でもないが、悪い訳でもないらしく、私のことを気に入ってくれる異性も何人かいた。私は感情の強い人間ではないが、貰った愛に感謝しそれに答えるだけの優しさはあったので、恋愛で困ったことは無い。

 

このように、今まであまり困ったことがないのだ。何かに逆らって自分のしたいことを押し通すよりも、流れに身を任せて、その中で自分の出来ることをこなして行った方がいいのではないかと思ってしまう。

 

けど、時折思うのだ。親の反対を押し切って自分の行きたい大学へ進学したり、狭き門である就職口に努力して、しかし落ちてしまったり、本当に大好きであった恋人に振られて号泣していたり、そういう強い感情を持って生きていくのも楽しいのではないかと。

 

今まで頑張らなかった結果、私の人生は至って平凡だ。べつに会社の中で私がいなくてもなんとなく仕事は回っていくだろうし、私に振られることで号泣してくれる恋人もいない。熱意を持って生きるには、もう歳を取りすぎてしまった。今日もまた、明日もまた、この先ずっとこのままなんの変化もなく過ごしていくのかな。

 

世間はクリスマスで、今日はイルミネーションを見てきた。華やかな照明で素敵だったが、べつにみたかった訳では無い。素敵な世界の、平凡な私。