自己愛の過剰摂取

メンヘラオタクが暇つぶしに何か書きます 

コミュニケーションについて

人間同士のコミュニケーション方法の中で、共通の他人についての悪口を共有するというものがある。これはインターネットにおいてもリアルにおいてもよく見かけるが、自分はこの方法のコミュニケーションをあんまりとったことがない。その理由について考えてみた。

 

まず私は小学校でいじめられていた。人間がまず最初に人とまともにコミュニケーションを取る場所で早々に躓いてしまっていた。いじめというものはまさに共有の敵を作ってコミュニケーションを行うもので、自分はその敵に指定されてしまっていた。この段階でまずこのコミュニケーションに馴染むことができない脳になってしまったんだと思う。基本的にはみんな小学校でそれなりに立ち位置を考えながら生きていけているので、このコミュニケーションが主流になるのはなんとなく理解できた。

 

この他者の悪口を共有するコミュニケーション方法は歳をとっても続けられているようだ。小学校や中学校は基本的にいろんな能力の人間がいて、差が激しいので悪口を言いやすい環境があるのはわかるが。なぜ歳をとってもこの悪口によるコミュニケーションが続けられているのだろうか。

 

これはTwitterを見ててなんとなく思ったことなんだけど、悪口をよく言う人はその人自身が大したことがない、って言うと言い過ぎなんだけど、その人自身がしょうもないことが多いと思う。特にやりたいこともなくて他人からの劣等感だけやたら持っていて日々に不満がある、そんな人たちがよく悪口とか批判?とかしている気がする。

 

なんとなく思いついたんだけど、人間は基本的に歳を取ると自由が増えていって、いろんな選択肢が出てきてできることが増えていくように思える。その中で自分がやりたいことを見つけられた人間はまた次のステージとして将来のこととかそういう未来に進んでいける。けどその自由の中で自分のしたいことが見つけられなかったり、選択肢の中で他者と比べられて劣等感を必要以上に抱いてしまってそれに囚われたり、要は次のステージに進めなかった人間が他者への悪口を共有するコミュニケーションに固執しているように思える。インターネットでもやたらと何かをディスするツイートが伸びたりしているのはそういうしょうもない人間がいっぱいいるということなんだろうなと思う。Twitterに張り付いてる人間なんて他に趣味がない何もない人間ばかりだろうしそういうツイートが伸びるのは仕方ないように思える。

 

そういえば自分みたいな小学校とかの段階からコケている人間は、基本的に早々にコミュニケーションを捨てているので必死に自分が楽しめることなどを探していくので、あんまり悪口とかに興味が出てくることはないんじゃないかな。自分はそういう感じで、自分の興味があること以外は結構どうでもいい。けどこれは個人では行きやすいけど社会性はどんどん失われていくしあんまり良くない方法な気がする。けど興味がない者は仕方がないよね。みんな頑張って生きてて偉いです。