自己愛の過剰摂取

メンヘラオタクが暇つぶしに何か書きます

彼女が自殺しました

7月1日、私の大好きだった彼女が自殺しました。自殺方法は電車のホームへの飛び降り自殺。その行為をツイートキャスティングで放送していたらしく、インターネットに出回っていました。

 

彼女の自殺の原因は様々あると思います。彼女は精神病を抱えていました。原因は主に家庭環境にあったみたいです。私も詳しいことはわかりませんが、片親でした。私は彼女とよく通話していて、よく喧嘩をしているのを聞きましたが、それでも仲は良かったように感じました。彼女は母親のことが嫌いではなかったようです。

 

私は彼女と付き合っていました、7ヶ月ほどです。Twitterで知り合い、よく話すようになりました。彼女はとても若く、私とは歳が離れていたため、少し仲良くしてくれているという認識でした。私が元カノに振られ、自暴自棄になっていたときがあったのですが、そのときにとても優しくしてくれたのが彼女でした。私はとても辛かった気持ちを彼女に押し付けて、救われていました。

 

彼女はとても可愛かった。死んでしまった。私が殺してしまいました。私達は依存しあっていたように思います。私も彼女のことかで大好きでした。彼女も私のことが大好きだったように思います。毎日通話して好きと言い合っていました。本当に大好きでした。今でも何もかも信じられません。彼女が死んでしまったことだけが事実で、他には何もなくなってしまいました。

 

私と彼女は6月30日に喧嘩をしました。その日もいつものような通話をしていました。仕事の話になり、疲れるよねとかだるいよねみたいな話になっていました。そのとき、ふと彼女が「なんで仕事頑張ってるの?」と言いました。今考えてみれば、ただなんとなく言っただけのセリフのように思えます。しかし、その時の自分は仕事がはじまって3ヶ月ほどで、環境にもなれておらず、まいにちいきていくので精一杯ですね余裕がありませんでした。私は毎日頑張って働いて、お金を稼いでなんとか生きたり彼女と会ったり、ゆくゆくは同棲して結婚するのだと考えていて、そのためならなんとか頑張っていける、そう思っていました。それなのに、そこ考えを、頑張ってきた3ヶ月をすべてバカにされたように感じて、頭が真っ白になってしまいました。唐突に通話を切り、その日は寝ました。次の日もまだ気持ちが整理できておらず、通話を無視してしまいました。ただなんとなけ放ったその一言が飲み込めなかったのです。その日のうちに通話をしていれば、彼女は死んでいませんでした。最後に送られてきていたLINEを覚えています。「こえきかせて」そう打たれていました。9時50分くらいだった気がします。飛び降りる少し前だったのでしょうか。

 

私は人のことがうまく信用できません。他者はこわく、何を考えているのかわからず、自分は他者から好かれるようなことはないと考えています。私は友達がいません。自分が他者と関わってもらえるだけの価値が無いです。プライベートでわざわざ他者が私と関わってもらえるとは考えられません。

それなら自分一人で生きていけば良いと思われるかもしれませんが、私は何故か寂しくなって人との関係を求めてしまいます。私は他者からの行為にすがって生きてきました。仕組みはわかりませんが、私はたまたま彼女から好かれました。私も彼女のことが好きになりました。お互いがお互いを好きになるのは良かったのですが、私達は共に未熟で、依存しているような形になってしまいました。

 

この問題は、私が他者とのコミュニケーションを恐れていたがために起こりました。私も彼女も人として未熟で、そして不安定でした。彼女は人と話すことでしか安定できず、私は自分の殻に引きこもり、自分だけの世界に入って心を守ることでしか安定ができていませんでした。私は自分のことを他者が本当に受け入れてくれるとは信じておらず、他社から私が間違っていることを言及されることに怯えていました。私は他者から否定されたくなかった。自分がもし間違っていたとしても、自分がそれで良ければいいのだお言い聞かせてきました。しかし、生きていくためには、他者とともに生きていくためには、自分だけが良くてもだめだということに、今更ながら気が付きました。本当に私は愚かな人間です。人一人死んでようやく気がつけたのですから。私は彼女に都合の良い存在だと思っていたようです。けどそれは違います。彼女も人間であり、いろいろなことを考えています。生きるのも辛かったんだ。けど生きていてくれたんです。私なんかにすがって。私も彼女にすがっていたはずなのに、何を怖がっていたんだろう。どうして彼女のことを信じて話さなかったんだろう。一言「〇〇と一緒に過ごすためだよ」って、どんなに怒った口調でも良かった。そう言ってあげたら良かった。そう思っていたのに。どうして否定されたと思ってしまったんだろうか。二人なら生きていけたのに、どんなにつらくても、二人でなら。そう思っていたのに、私は本当に愚かな人間でした

コミュニケーションについて

人間同士のコミュニケーション方法の中で、共通の他人についての悪口を共有するというものがある。これはインターネットにおいてもリアルにおいてもよく見かけるが、自分はこの方法のコミュニケーションをあんまりとったことがない。その理由について考えてみた。

 

まず私は小学校でいじめられていた。人間がまず最初に人とまともにコミュニケーションを取る場所で早々に躓いてしまっていた。いじめというものはまさに共有の敵を作ってコミュニケーションを行うもので、自分はその敵に指定されてしまっていた。この段階でまずこのコミュニケーションに馴染むことができない脳になってしまったんだと思う。基本的にはみんな小学校でそれなりに立ち位置を考えながら生きていけているので、このコミュニケーションが主流になるのはなんとなく理解できた。

 

この他者の悪口を共有するコミュニケーション方法は歳をとっても続けられているようだ。小学校や中学校は基本的にいろんな能力の人間がいて、差が激しいので悪口を言いやすい環境があるのはわかるが。なぜ歳をとってもこの悪口によるコミュニケーションが続けられているのだろうか。

 

これはTwitterを見ててなんとなく思ったことなんだけど、悪口をよく言う人はその人自身が大したことがない、って言うと言い過ぎなんだけど、その人自身がしょうもないことが多いと思う。特にやりたいこともなくて他人からの劣等感だけやたら持っていて日々に不満がある、そんな人たちがよく悪口とか批判?とかしている気がする。

 

なんとなく思いついたんだけど、人間は基本的に歳を取ると自由が増えていって、いろんな選択肢が出てきてできることが増えていくように思える。その中で自分がやりたいことを見つけられた人間はまた次のステージとして将来のこととかそういう未来に進んでいける。けどその自由の中で自分のしたいことが見つけられなかったり、選択肢の中で他者と比べられて劣等感を必要以上に抱いてしまってそれに囚われたり、要は次のステージに進めなかった人間が他者への悪口を共有するコミュニケーションに固執しているように思える。インターネットでもやたらと何かをディスするツイートが伸びたりしているのはそういうしょうもない人間がいっぱいいるということなんだろうなと思う。Twitterに張り付いてる人間なんて他に趣味がない何もない人間ばかりだろうしそういうツイートが伸びるのは仕方ないように思える。

 

そういえば自分みたいな小学校とかの段階からコケている人間は、基本的に早々にコミュニケーションを捨てているので必死に自分が楽しめることなどを探していくので、あんまり悪口とかに興味が出てくることはないんじゃないかな。自分はそういう感じで、自分の興味があること以外は結構どうでもいい。けどこれは個人では行きやすいけど社会性はどんどん失われていくしあんまり良くない方法な気がする。けど興味がない者は仕方がないよね。みんな頑張って生きてて偉いです。

私の中にある私の理想は、いつだって私を傷つけるためにある。

 

季節が春になると世界が一変する。命が芽吹き花が咲くように、私を取り巻く環境も次々と変化を見せる。私は今日、いよいよ高校生になるらしい。思ったよりも勉強もしておらず、今までろくに努力もしてこなかったけど、一応高校生にはなれるらしい。隣の家の由佳ちゃんが高校生になったときはとても大人っぽくてスカートも短くてかわいくてすごい遠い存在に思えていたのに、なってしまった今では何も変わっていないように思える。それでも私を取り巻く環境はどんどん変化していく。

 

昨日の夜に学校に行きたくなくて泣いた。環境が一変するのに私自身は何も変わっていなくて、それでも変わっていかないといけなくて、それがうまくいかないかと不安で泣いていたように思う。自分の中には無意識に理想というものがあり、自分がそれになれていないのに新しい場所に飛び込むのがこわい。そもそも理想なんてうまく想像できないんだけど、けどなんとなく今のままじゃいけないみたいな気持ちはあってもっと良くならないといけないみたいな気持ちはあって、けどどう良くなったらいいかよくわからなくて、そういうものに悩まされている。本当は私は私で特に何か変わっていったりしないのかもしれないし、悪い方向にどんどん変わっていってしまうのかもしれない。目に見えない理想がこわくて、泣いてしまっていた。

 

泣いたところでどうにもならないということに泣いたあとに気がついて、なんでかわからないけど泣くと少し落ち着いた。結局自分は自分で駄目でも良くてもなんとか生きていくしかないんだと思う。

 

学校ではそこそこ人と話せた。いろんな人がいるみたいだけど、みんな緊張してるからか落ち着いていて、なんとかやっていけるのかもしれないと思った。理想通りになっていなくても、うまくやっていけるならそれでいい気がする

ゲームをしています

ゲームというものは基本的に誰しもが役割を持っていて、その役割の中から自分が今一番したいものを選択して演じて行くもの。

 

最近することがなくて永遠とゲームをしている。自分が何者かになり、その役割をこなしていく作業。味方がその者の役割をこなさなければ怒り、皆がそれぞれの役割をこなせたら嬉しくなる。そういうものを日々している。

 

ゲームをすればするほど、自分がそのキャラクターとなり、その役割のために真剣になっていく気がする。そしてどんどん味方がそのものの役割をこなせていないとイライラするようになってしまっている。ゲームごときでイライラするのは明らかに間違っているが、ゲームをすればするほど、それはゲームではなく作業になっていき、きれいに物事が進まないとイライラしてしまう。

 

そんなにイライラするなら1人用のゲームをしたらいいと思う。そう思って今日ニーアオートマターを買ってみた。1人用のゲームはすべてがシステムによって動いており、すればするほどこれがゲームであり茶番であることを強く意識してしまうのでうまく続かない。人が介入すればするほど、役割を演じることに価値が生まれ、役割に沿った作業をすることが楽しいのかなと思う。

 

冷静に分析して文字にしてみたものの、何を言っているんだろうかこいつは。要は自分ではない何かになってその役割を演じることが気持ちいいということだと思う。インターネットもそんな感じ。かわいいキャラになりきって好き勝手振る舞う。そういうロールプレイ。けどインターネットはキャラよりも自己を出す人間が多いので見ていて疲れる。やっぱり自分になりたくなかったらゲームをしなければいけないのだろう。

社会

自分のブログを読んでいるとこの頃の自分は今よりも生きているなと思う。最近は私もずいぶん歳をとってしまって、人生と自分の存在がどんどん離れていくように感じる。昔は他者に認められるために、許されるために必死に自分を消費していたけれど、最近では私は他者に許されるのではなく、社会に許されるべき人間になったように思う。これが歳を取ること、大人になるということなのだろうか。昔は社会なんてものは曖昧で大人がせっせと維持しているシステムのように感じていたが、今では社会は人間が生きやすいように存在している世界のように感じる。昔は他者と他者が繋がりそれが網目状に広がり世界ができていたように感じていたが、今では社会という大きな箱の中に規則正しく並んでいるような、そんな気がしている。

 

仕事帰りに彼氏を待つ。駅前には人がごった返していて、それぞれがそれぞれの寝床に帰るのだろう。社会を維持していた歯車たちが、一時的に休憩をするのだ。社会の束の間の安息。世界が慌ただしく収束していく。社会に出てから気になることが減った気がする。駅前にいてもきょろきょろすることも減った。昔はどこに友達がいるかもわからずに、見かけたら挨拶しなければ、人と関わらなければと緊張していた。今では人と人との関係は希薄になり、世界の中でなんとなく同じような歯車がいっぱいいるなという気持ちになる。視界がぼやけてくる。自分という存在が希薄になっていく。大きな社会という世界の中で、みんな曖昧になる。

 

歳をとっていくごとに、自分の生の価値が薄まっていく感覚がある。

 

私の腕の傷を撫でながら「今でも切ってるの?」と聞かれた。そういえば最後に腕を切ったのはいつだろうか。2年前とか、正確に思い出せないくらい昔のこと。私は自分の体を傷付けて気持ちよくなっていた。昔の私は少なくとも今よりももっと人間として、女性として価値のある肉体だったように思う。自分自身にはなんの価値もなくて、けど肉体にだけ価値があって、他者に求められて、けどそれは私が求められているわけではなくて、若い女としてのランダムに抽出された中の一つというような、そういう感覚に日々戸惑っていた。ある日私は他者に優しくされた。けどそれは私に優しくしてくれたわけではなくて、若い女として優しくされていただけで、それは私でなくても良かったわけで、けど私は一人しかいなくて、途方に暮れてどうしようもなくなったりしていた。自分の体を傷つけると気持ちよかった。私のこの体は自分のものなんだって自覚できた。私は私だった。それは当たり前のことかもしれないけど、自分の体を傷つけることでしか実感できなかった。

 

昔の私は何かを失うことに必死だった。人は何を考えているかわからず、関わるたびに傷つけられていた。自分が他者に傷つけられることが怖かった。何も傷つけられたくなかった。けど人間は他者と関わっていないと生きていけなくて、それはどうしようもなくて、けど傷つけられたくなくて、自分で自分を傷付けて、せめて自分の手で傷つけていた。

 

歳を取って、長い間自分を傷つけていった結果、本当に何も残らなかった。自分には何もなかった。けどそれで良かったと思っている。私には何もない。だから傷つけられることもない。私は自分のなりたい自分になれている気がする。

 

こういう話をしてみても「けど○○ちゃんは素敵だしなにもないなんてことないよ」と言われるだけ。昔はそういうお世辞にいちいち真に受けて一喜一憂したりしてたけど、今は人間が関わるためのコミュニケーションだなくらいにしか思わない。何もないけど、それでいいと思う。

ごみ

初めてそこに入れたとき、彼女のよがるその体を、苦しそうなその顔を、消えてしまいそうに細い吐息を、目の前で感じてしまったとき、自分が彼女とは全く違う性であることを感じた。動くたびに、求められる。自分が男で、彼女が女であることが、ありありと浮かんでくる。彼女に求められるたびに、これをめちゃくちゃに壊してしまいたくなる。自分は一生女になれない。一生このか弱く異性を求め続ける女性にはなれないんだということが、本当に悲しかった。自分はただ醜く動いていくだけ。何もない。生殖のために生み出された機械のような、規則的な動作のみ許されていた。何もかもめちゃくちゃにしてやりたくて、激しく動いて名前を呼んだ。せめて自分だけ見てほしかった。こんな行為誰でも良かったんだと思う。ただ動くだけ。自分でなくても構わなくても、自分だけ見てほしかった。それがせめてものの抵抗のように感じられた。

自分は一生かわいい女になんてなれない。一生性に囚われてせめてめちゃくちゃにしてやることくらいしかできない。どうすることもできないことが分かった。自分は一生他者から何かを奪えない。可愛くないから。ただ醜く、消費されていくだけ。